宗教について
僕の家では祖父母の時代から、某宗教を信仰している。
もちろん僕も幼い頃からそれが当たり前であるかのように教育を受けてきた。
「洗脳」という言葉はどうもマイナスなイメージが先行してしまっていてあまり使いたくないのだが、
あの教育はきっとそれにあたるものだったと思う。
でもそれは別に心地の悪いものではなかった。(洗脳なら当たり前か)
そして引いた目で見ても、道徳的に明らかにおかしいこと(オ●ムみたいな)は言っていなかったし、不当にお金を巻き上げることもなかった。
たまにある座談会めいたものに連れて行かれても、おばさんやおじさんはいつもニコニコと優しくしてくれているし、お菓子もいっぱいもらえた。
高校生にもなってくると何だかよくわからない試験も受験することに。
でもとくに反抗することもなく“両親が喜んでくれるなら”と思って受けて、合格した。
僕の一家が信仰している宗教は、良く言えば希望に満ち溢れて聞く者の背中をそっと押すような美談。
悪く言えば、耳障りの良い言葉を並べてよくある努力成功型(苦悩→祈りまくる→結果がついてくるみたいな)のエピソードを内容と話す人間を変えて伝えているだけ。
余談だがその座談会で流れる映像には字幕がついていて、スクリーンの中の観客が笑うと“(笑い)”と出てくる。
なぜ“(笑)”ではなく、“(笑い)”なのだろうか。あの“い”は必要なのだろうか…と観る度にうっすらと思っていたのだが、誰かに訊くほどのことでもないので、スルーしていた。
でも僕はあの“(笑い)”が、都合の良い言葉をまくし立てる不気味さを視覚化しているような気がする。(これ以上掘り下げても何も出てこないので、今後は言及しない。)
僕はその美談に心から納得することもなかったが、特段おかしなことを言っているとも思わなかったので反論もしなかった。
そして目の前に置かれた環境を一度は信じてみようと、本気で祈ってみることで発見したことが1つ。
それは本気で祈る(たとえば「幸せになるように」とか)ことで、脳に良いことを見つけるバイアスがかかるということだ。
実際に良いことが起こると、“あれだけお祈りした成果が出た!”と、ますますその宗教を信じるようになる。
でも冷静に考えると、お祈りして脳にバイアスさえかければ唱えるのはお決まりの台詞じゃなくても、極論「ウンコ、ウンコ…」でもいいんじゃないかということ。(実際にやったら笑えてきてお祈りどころじゃなくなると思うが)
逆に嫌なことが起こると、“あれだけ祈ったのに…”と必要以上に落ち込んだこともあった。
でもこれって、誕生日とか入試の合格発表日とかと一緒じゃないか。
何か良いことが起こったら“今日は誕生日だからプレゼントが贈られたんだ!”と喜び、反対に悪いことが起こったら“せっかくの誕生日なのになんでこんな想いをしなくちゃいけないの!”と普段よりも悲しくなる。
実際に自分が通った高校の入試合格発表を見に行く道中、全ての信号が青だったことを、“早く見に行け”という思し召しだったんだ…!と舞い上がったこともあった。
本当に人間は都合良くできている。脳さえ騙せばオールウェイズハッピーなんだから。
きっと僕の祖父母と両親は、今の宗教を信じることで脳をうまく騙していくことに成功したのだろう。一種の才能(脳?)だとも思う。
でも両親(とくに母親)が僕を洗脳しきれなかった原因を1つ挙げるとしたら、僕に“音楽を聴くことの楽しさ”を教えてしまったことだ。
音楽はすがるのにあまりにも適していて、懐が深くて、決して裏切ることはなかった。
音楽を通して様々な表現者と出会うことで、徐々に広がっていく僕の脳内の世界観。
もちろん音楽だけではなく、映画、本、テレビやネットのコメントだってその手助けをしてくれた。
カルチャーにアンテナを立てて、様々な立場の表現者の意見を吸収していくことで、だんだんと気づいてきた今の宗教に対する違和感。
きっと普段の情報量が少ないと、目の前の光を光だと疑わずに飛び込んでしまうのだろう。(熱心な信者に老人が多いのはそういうことなのかも)
しかし違和感に気づいた今でも、僕は毎朝30秒ほどお決まりの台詞を唱えて祈ってから、出かける。
そして仏壇に飾ってある祖父と祖母の遺影に笑顔を見せるのだ。
宗教を理屈でいくらこねくり回せても、“大好きな人が信じていたもの”はなかなか裏切ることができない。
カルチャーが僕を支えていてくれたように、心からの信頼を寄せていた祖父母の支えが今の宗教なんだとしたら、それはもう認めざるを得ない。
結局、“愛”の前には全面降伏するしかないのだ。
そんなクリシェで都合よくまとめてしまって恐縮だが、22年生きていてようやくわかり始めたことだから忘れないように書いておく。もうすぐ春だね。How do you feel?