むろみとカルチャーは今夜も夢中

一期は夢よ、ただ狂え

僕のとっておきの皮肉

自ら命を絶った者を、僕は軽蔑している。
「何かつらいことがあった?」
「誰か気づいてあげられなかった?」
そんな風に寄り添うことができない。


それはなぜだろうか。
おそらく理由の大部分を占めるものとして、
「自分がこんなに苦しみながら、それでも生活を続けているのに、寿命を待たずにおさらばするなんてあんまりだ!」という苛立ちがあるからかもしれない。


もちろん訃報を知ったときは衝撃を受けたし、ものすごく悲しい気持ちにもなった。
感情の発露に順番をつけるなら
驚き→なぜ?という困惑→悲しみ→そして怒りだ。


最後は必ず怒りに着地する。
それも「自分はこんなに・・・」という想いから来る怒りだ。


同情する余地もないし、納得して“安らかに眠れ”だなんて、微塵も思えない。
むしろ自分で人生の幕を下ろすことで“永久不変の安らぎ”にありつけるなら、それこそ幕引きを助長することになってしまうのではないだろうか。

 

  • 大往生で寿命を全うする人
  • 病気や事故により志半ばでこの世を去る人
  • 生まれてすぐ、死の概念を理解する前に旅立つ子ども
  • そもそも生まれて来れなかった命


それぞれが様々なタイミングで、この世を去る日がくる。
そしてご存知のとおり、そのタイミングは誰にもわからない。


いつくるかも知れない“そのとき”を、自ら強引に手繰り寄せてしまうなんて、あんまりじゃないか。ズルすぎる。


どんなに偉大な功績があったとしても、最後の最後にズルをする人間。


そんな怒りが、軽蔑という感情を生むのだと思う。


だからなんていうか、故人の作品がバカ売れしているのを見ると、やるせない気持ちになる。

 

冷たいことを言うと、死んだからって作品の質は上がらないからだ。


もちろん元来大ファンだった方が作品を手に取ることになんの異論もないし、心中を深く察するところでもある。


ただ、もし訃報がなかったら実際の売上はどうなっていただろう。
実際の注目度は、どれくらいだっただろう。


これが病気や事故で惜しまれつつこの世を去った人の作品なら、まだ慈しむ気持ちも芽生える。
実際に自分も訃報の衝撃で、作品を予約したことが何回かある。


しかし自ら命を絶った人の場合、消費者としてどのような気持ちで作品を手に取ればいいのだろうか。


“作品の質”と“故人の人生”を完全に切り離せる人は、まだ手に取る気持ちもわかる。


でもほとんどの場合、僕らが稼いだお金を払う価値を見出せるほど好きになるときって、その人の人柄や言動、ふとしたときの振る舞いなど、人間性も込みで好きになっているのではないだろうか。


だから、最後の幕引きを自らの手で下すようなズルい人の作品を、手に取る理由がわからない。


今までどおり純粋な気持ちで味わえるわけがないから。


どんなに精を出した渾身の作品でも、最後に自分が拭えない泥を塗りつけているようなものだと思う。


死んでしまったら
“あんな時代もあったね”と、笑える日は二度と来ない。


やるせない想いは、徹底的に利用してやる。


苦しみながらも思いっきり生き抜いて、いつかもういない奴らを悔しがらせてやるから。


自ら命を絶ったあんた達が、今や僕の生きる糧だよ。


皮肉な話だね、バーカ!